“私のもの!”に執着してみる [ココロの使い方]
●ごあいさつ → ☆
●占い師的ブログはこちら → 『日々、果ノ種』
自分の持ちものを「私“の”もの」って言うよね。
「人“の”もの」「誰か“の”もの」という表現。
国文法的に言えば、「だれそれの」は「もの」を修飾する連体修飾語であるのだが、
それはそれでいいとして(汗; ・・・文法にはめっぽう弱い)、
私のかばん、私の靴、私の家、たまたま買ったものや、
誰かからプレゼントされたものも、手に入れば「私のもの」になる。
じゃぁ、カラダはどう?
「私のカラダ」という表現をするよね。
カラダって、誰かのものじゃない。私、だ。私そのもの、の、はず。
私のカラダは私、だよな。
でも、その表現が見つからない。
私そのものではなく、私“の”カラダ。
「私」という魂が入れ物として使っている「肉体」という持ち物です、ってことだよね。
だから、人はこのカラダに執着する。
いくら外見ではなくココロが大事だよ、と言っても、
ほんとうに理解している人になんてこれっぽっちも出逢わない。
着飾ったり、笑顔見せたり、ウソついたり、無理したり、取り繕ったり、
そうそう、ダイエットしたり、運動なんて執着がなくちゃできません、って。
食べる、寝る、触れ合う、という3大欲求は肉体の本能だから、
ここに執着がなければ、生きることはとうてい無理ということになる。
執着は消せないのよ、肉体を持って生きているうちは。
それが「欲望」ってこと。
スピリチュアルでキレイなコトバでいろいろと誘い文句を聞くけれど、
過去も未来も、そして今、この瞬間も、
ここに同時に存在するんだし、放って置けばいいものを・・・、
過去世がどうの高次がどうのカルマがどうの、なんて、それは新たな執着ですよ、
執着を持たないように執着しようとしているだけなんだってば。
もともと、煩悩にまみれているし、執着しまくっているんだから、
それをなんとかしようとするな、ってことなんですって。
続く。
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自分の持ちものを「私“の”もの」って言うよね。
「人“の”もの」「誰か“の”もの」という表現。
国文法的に言えば、「だれそれの」は「もの」を修飾する連体修飾語であるのだが、
それはそれでいいとして(汗; ・・・文法にはめっぽう弱い)、
私のかばん、私の靴、私の家、たまたま買ったものや、
誰かからプレゼントされたものも、手に入れば「私のもの」になる。
じゃぁ、カラダはどう?
「私のカラダ」という表現をするよね。
カラダって、誰かのものじゃない。私、だ。私そのもの、の、はず。
私のカラダは私、だよな。
でも、その表現が見つからない。
私そのものではなく、私“の”カラダ。
「私」という魂が入れ物として使っている「肉体」という持ち物です、ってことだよね。
だから、人はこのカラダに執着する。
いくら外見ではなくココロが大事だよ、と言っても、
ほんとうに理解している人になんてこれっぽっちも出逢わない。
着飾ったり、笑顔見せたり、ウソついたり、無理したり、取り繕ったり、
そうそう、ダイエットしたり、運動なんて執着がなくちゃできません、って。
食べる、寝る、触れ合う、という3大欲求は肉体の本能だから、
ここに執着がなければ、生きることはとうてい無理ということになる。
執着は消せないのよ、肉体を持って生きているうちは。
それが「欲望」ってこと。
スピリチュアルでキレイなコトバでいろいろと誘い文句を聞くけれど、
過去も未来も、そして今、この瞬間も、
ここに同時に存在するんだし、放って置けばいいものを・・・、
過去世がどうの高次がどうのカルマがどうの、なんて、それは新たな執着ですよ、
執着を持たないように執着しようとしているだけなんだってば。
もともと、煩悩にまみれているし、執着しまくっているんだから、
それをなんとかしようとするな、ってことなんですって。
続く。
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